社会

後白河、後鳥羽、後醍醐天皇(上皇)をよく間違うので後三条天皇も含めて整理しました

みみずく
みみずく
中学校の歴史の教科書に登場する、後〇〇天皇について調べてまとめました。
「後」がつかない白河、鳥羽、醍醐、三条天皇の事もご紹介します。

天皇の名前「号」はどうやって決まったの?


〇〇天皇、の〇〇は生前のお名前ではなく、天皇の死後におくられる「号」です。
それぞれの号の由来は人や時代により様々ですが、号の中には天皇の生前の業績を称えて送られる「諡号」(しごう)や、単純にゆかりのある土地や場所からとられた「追号」(ついごう)等があります。
「後醍醐」のように、前に「後」のつく号は加後号(かごごう)といいます。これもそれぞれの号の由来は様々ですが、天皇の歴史が長くなった平安中期以降に出てきた名前です。

みみずく
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後〇〇天皇は〇〇天皇にちなんで付けた号ではあるみたいだけど、両者に直接の繋がりは無い場合もあるよ。
〇〇天皇の息子である場合もあるけど、例としては少ないよ!

それぞれの天皇について

それぞれの天皇が活躍された時代

中学校の教科書に登場する後〇〇天皇は平安時代の院政期~南北時代の方々です。
この時代は藤原氏の摂関政治が衰退を始め、一方では源平を中心とした武士の力が強まる時期で、いずれにせよ天皇にとっては政治の舵取りを行うのが難しい時代でした。
教科書の中でも、天皇自身のご活躍がどうだったかというよりは、揺れ動く時代の中で彼らがどのように天皇(上皇)の立場を貫いたか、その結果時代がどう動いたか、に焦点が当たっていると思います。

ご紹介する4人の中で一番時代が古いのが後三条天皇です。祖父の三条天皇は藤原氏を母に持つ天皇でしたが、自身の母は藤原氏ではなかった為、藤原氏の力を弱めて天皇中心の政治を行おうとしました。

2人めの天皇は後白河天皇ですが、日本史の中では白河天皇もまた上皇となって院政を始めた人物として重要人物です。後白河天皇は白河天皇の政治を理想とし、自ら後白河と名を付けたと言われています。

3人目は後鳥羽天皇です。源平合戦の最中に三種の神器を持たずに即位しました。世は既に武士の世へと移っていましたが、鎌倉で源氏の直系が途絶えた後、再び政治を天皇(上皇)の手に取り戻そうと承久の乱を起こしました。

4人目の後醍醐天皇はこの後少し時代が飛んで、後鳥羽天皇から140くらい後の鎌倉末期の人物です。
足利高氏(後の尊氏)を使って鎌倉幕府を滅ぼし政権を取り戻しましたが、後に尊氏と対立し室町幕府が開かれ、後醍醐天皇の政権は終わりました。

後三条天皇

(生没:1034~1073 在位1068~1072)
摂関政治の時代に生まれた、藤原氏を母に持たない天皇

母は禎子内親王という皇族である。
「延久の荘園整理令」を発令し、正式な法手続きを踏んでいない荘園を廃止した。
これによって摂関家や大寺院は収入を大きく落とした。

こうした天皇中心の政治を目指す姿勢は後の天皇の院政へと繋がっていく。

三条天皇について

後三条天皇の母である禎子内親王の父であり、後三条天皇の祖父にあたる。
三条天皇の母は藤原氏の娘だった。
また彼の在位期間は藤原道長が摂政と同等の権力を持つ(摂政の位につくのは次の天皇の時)摂関政治全盛の頃であった。

後白河天皇

(生没:1127~1192 在位1155~1158)
保元の乱で崇徳上皇と対立したが勝利し、上皇となって権力を握った

後白河天皇が政治を行っていた時代は、天皇の後継者争いと藤原氏内部の権力争いが激しくなり、それに加えて平氏源氏が台頭する内乱期である。
保元の乱で勝利した後白河天皇は平治の乱でも敗北を免れ、その後は平清盛と連携して政治を行った。

後に平清盛のクーデターによって後白河上皇と清盛の協力関係は終わり清盛が政治の実権を握る。しかしその後も鎌倉幕府が開かれ頼朝と対面するまで、上皇は京にとどまり源平、奥州合戦の行く末を見守り政治を動かし続けた。

みみずく
みみずく
後白河天皇は退位と出家によって上皇、法皇と呼び名が変わるけど、ここでは混乱するから「法皇」は使わなかったよ。

白河天皇について

白河天皇は後白河天皇の5代前の天皇である。5代前とはいっても上皇として長く政治の実権を握った。
後三条天皇の子である。
院政は白河天皇から始まり、この白河上皇と鳥羽上皇、後白河上皇の時代が最も強い影響力を持った。

後鳥羽天皇

(生没:1180~1239 在位1183~1198)
承久の乱に敗れ隠岐で最後を迎えた天皇

源平合戦の最中、安徳天皇が都落ちした後の京で三種の神器を持たずに即位した。
退位後は上皇として院政を行った。

相撲、水錬等のスポーツから管弦にいたるまで多才多芸の上皇であった。
中でも和歌への情熱は凄まじく、新古今和歌集の編纂を藤原定家等に命じたのは後鳥羽天皇である。自らも後々まで新古今和歌集の改定に力を注いだ。

承久の乱は源実朝暗殺によって源氏の直系が途絶えたのちに、後鳥羽上皇が政治の実権を朝廷に取り戻そうとして起こした乱である。
この時東国の武士は幕府につき、後鳥羽上皇は敗戦。隠岐に流された。

最初の号は「顕徳院」だったが、後鳥羽院の怨霊が鎌倉幕府に災いをなしたという噂話が出た為「後鳥羽院」に改められた。

みみずく
みみずく
悲運の生涯を送った天皇が怨霊にならないように「徳」の字をつけらる事はあったみたいだけれど、名前が変えられるのは珍しいね!

人も惜し 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

ー後鳥羽院ー

百人一首99番

鳥羽天皇について

白河天皇の子で、白河天皇の次の天皇。
鳥羽天皇即位後も白河天皇が上皇として政治の実権を握っていたが、鳥羽天皇もまた早めに退位して上皇となった。
白河天皇が亡くなった後に、鳥羽天皇が政治の実権を握った。

後醍醐天皇

(生没:1288~1339 在位1318~1339)
鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を行ったが、足利尊氏と対立し吉野に逃れた

1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府の御家人であった足利高氏等を味方に付け、鎌倉幕府を倒した。
その後天皇中心の政治を始めた(建武の新政)が、貴族を重視した政治だった為に武士の不満が高まり足利尊氏と対立し、新政は約2年で終わった。

その後、後醍醐天皇は吉野に逃れたが、朝廷は維持。そこで足利尊氏が京都に別な天皇を立てた。
そのため第三代室町将軍足利義満が朝廷を統一するまで、日本には2つの朝廷が並立することとなった。
後醍醐天皇の朝廷を南朝、尊氏が立てた京都の朝廷を北朝と言うため、2つの朝廷が並立した時代を南北朝時代と言う。

みみずく
みみずく
「吉野山懐古」という、西城八十作詞の琵琶曲があるよ!
吉野山にて後醍醐天皇を偲ぶ内容だよ。

醍醐天皇について

醍醐天皇は平安初期の天皇である。菅原道真を登用した宇多天皇を父に持つ。
醍醐天皇は藤原氏の勢力を排除して天皇中心の理想的な政治を行ったとされ、彼の治世は後の世で「延期・天暦の治」と言われ尊敬された。

みみずく
みみずく
後醍醐天皇は自分の追号を後醍醐とするよう、自分で決めて遺言していたそうだよ!

最後に

平安時代の時点ですでに長い歴史を持っていた天皇家は、跡継ぎ争いの問題に常に悩まされていたようです。
後〇〇という号は、先祖の力をいろんな意味で借りたいという、後世の人の願いが込められた号なのかもしれないなと思いました。

天皇の号の付け方には決まったルールがあるのかと思っていましたが、調べてみるとそうでもなくて天皇により様々な理由でつけられてきたというのが以外でした。よく考えてみれば現代の我々と同じで、歴史上の人物も自分たちの「今」を一生懸命いきていたんですよね。

何かの仕組みに則って生きてたわけじゃないんだよなあとしみじみ感じ入る次第です。

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