藤原姓と「藤原氏」
中臣鎌足が藤原姓を賜ったことで始まる藤原氏ですが、時代が下るにつれて一族が増え、平安時代の中期には摂関家から下級貴族、地方に土着する者まで様々いたようです。
そのため、同じ「藤原」を名乗っていても必ずしも親族同士だと認識していたわけではありません。
また、藤原摂関家は鎌倉時代以降、各家に分かれて家の名前(近衛、九条、等々)を名乗る為、これらの姓の人々は「藤原」を名乗っていなくても「藤原氏」だと言うことができます。
藤原姓の人物

初代藤原氏
中臣(藤原)鎌足(なかとみ(ふじわら)のかまたり)
(7世紀 飛鳥時代)
645年、中大兄皇子と共に曽我蝦夷、入鹿親子を倒し、大化の改新を進める中大兄皇子(後の天智天皇)の側近として活躍した。
もともとは「中臣」姓であったが、死の直前に天智天皇より「藤原」姓を賜り、藤原氏の始祖となった。
朝廷の中の藤原氏
藤原道長(ふじわらのみちなが)
(966-1028 平安中期)
摂関政治全盛期に摂政として政治の実権を握った。
当時の藤原氏は娘を天皇のきさきにし、その子を天皇に立て自らは摂政や関白になることで権力を伸ばしたが、中でも道長の娘の一人である彰子は紫式部や和泉式部等、有名女流作家の仕え先だったことで知られる。
この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば
上の有名な和歌は、道長の作である。
藤原頼通(ふじわらのよりみち)
(992-1074 平安中期)
藤原道長の息子。摂関政治全盛期の人物であり、彼もまた摂政、関白として権力を握った。
平等院鳳凰堂を建立した。
頼道の娘も天皇のきさきとなったが、男児に恵まれなかった為、この後摂関政治は衰退し院政の時代へと移っていった。
藤原忠通(ふじわらのただみち)
(1097-1164 平安後期)
保元の乱で勝者側となった人物。
摂政や関白、太政大臣の役職を務めたが、歌人や書家としても活躍した。
わたの原こぎいでてみれば久方の 雲いにまがふ沖つ白波
作者「法性寺入道前関白太政大臣」として百人一首に収められている上の歌は、忠道の作品である。
藤原頼長(ふじわらのよりなが)
(1120-1156 平安後期)
藤原忠通の弟。兄忠道やその息子との後継者争いに敗れ、保元の乱で敗死した。
藤原道憲(ふじわらのみちのり)
(1106~1160 平安後期)
出家して信西と名乗り、僧の身分で後白河天皇の腹心として活躍した。
平清盛と協力関係にあったため平治の乱では勝者側の立場で教科書に記載されているが、本人はこの乱で亡くなった。
藤原信頼(ふじわらののぶより)
(1133~1159 平安後期)
後白河天皇の腹心として活躍したが、同じく後白河天皇の近臣であった藤原道憲と対立、平治の乱で源義朝と組んで道憲を自害に追い込んだ。
しかしその後信頼もまた平清盛に敗れた。
この乱によって武士の力が強くなった事を、まず覚えておこう。
武士
奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)
(平安後期)
平泉に拠点を置き、奥州で権勢を誇った豪族。
文化人
藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)
(1162-1241 平安末期~鎌倉時代)
貴族で歌人。
勅撰和歌集である「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」の選者を務めた他、小倉百人一首を編纂した事でも知られる。
源氏物語等の古典の書写や注釈にも携わり、日本文学研究に多大な貢献をした。
梅の花にほひをうつす袖の上に 軒もる月の影ぞあらそふ
藤原定家 新古今和歌集
その他
藤原純友(ふじわらのすみとも)
(平安時代中期)
もともとは貴族。
地方官として伊予(今の愛媛県)に赴任し海賊を取り締まる立場になるが、後に海賊の頭領となり瀬戸内地方各地で乱を起こす。ついには大宰府をも攻め落とすに至ったが、最後には鎮圧された。
この藤原純友の乱は、同時期に関東で平将門が起こした乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれる。
最後に
東京書籍の中学歴史教科書を参考に人物をピックアップしました。
高校の教科書に登場する藤原氏はこれよりずっと多くなると思うので、調べてみて少し以外でした。
平安前期の藤原氏ら彼らが絡む事件が中学校の教科書には無いのですね。
中学校の教科書で藤原氏が登場するポイントは下の3つです。
1.大化の改新と藤原氏
2.摂関政治全盛期と藤原氏
3.貴族の政治から武士の政治へと変わる時代に登場する藤原姓の人物
調べるほどに、いかに日本史に藤原氏が深く関係しているかが解りました。
鎌倉時代以降の藤原氏についてはまたの機会にまとめてみたいと思います。
参考図書
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